シニアのための脳の話③―記憶の迷宮

鮮明に思い出されることがある一方、重要な場面であった筈なのに、情景が浮かんでこないことがある。何かを切っ掛けとして、忘却していたことを突然まざまざと思い出すこともある。好きな人との貴重な思い出が、その人に興味を失った途端、値打ちのないものに変質してしまう。
記憶はさながら迷宮のように不可思議だ。脳・神経科学の最新の研究成果を踏まえて、この謎に迫って見た。

記憶はどう作られるか?
まず、感覚を通して入って来る外部情報を大脳皮質の感覚野が把握する。言葉の場合は、言語野がその意味を理解する。それらの情報が大脳辺縁系の海馬に送られ、整理され、蓄えられる。睡眠中(瞳が活発に動くREM睡眠中)に、海馬は情報の取捨選択と整理統合を集中的に行い、記憶として蓄える。
海馬の隣に扁桃体という快不快、好悪、恐怖等を感じる部位があり、記憶に情動の色付けをする。強く感じるほど、記憶は強くなる。
海馬に蓄えられた記憶は2年ぐらい経つと、大脳皮質に書き移され、長期記憶として保存される。だから海馬を損傷すると、2年間程度の記憶が失せ、新たな記憶形成ができなくなる。しかし、2年以上古い記憶には全く問題は生じない。
大脳皮質の側頭葉に電気刺激を与えたら、昔勤めていたオフィスの様子や昔見た劇場の場面を鮮やかに思い出したという実験報告があり、長期記憶が大脳皮質に保存されていることが裏付けられた。しかし、どういう記憶が大脳皮質のどこに保存されているか詳細はわかっていない。記憶が映像なのか音なのか、何に関する記憶なのか等によって保存部位が異なるようである。

記憶は脳細胞(ニューロン)に保存されるのか、それとも神経回路の形成(シナプスの可塑化)が記憶なのか?
特定の脳細胞がある訳ではないとする説が有力であったが、2012年に利根川進理化学研究所脳科学総合研究センター長・MIT教授(1987年ノーベル賞受賞)が、記憶を保存する細胞群が存在することを突き止め(記憶を書き込み、読み出す時は細胞群間の回路を信号が走る)、100年の論争に終止符を打った。

大人の脳細胞(ニューロン)は死ぬことはあるが、新たに生まれることはないと言われて来た。ところが、1998年にヒトの大人の脳でも新しい細胞が作られていることが観察された。細胞新生は、実は海馬に見られた。大脳皮質の容量は膨大だが、小さな海馬の容量には限度があり、年齢とともに死ぬ細胞もあるので、海馬に細胞新生があるのではないか。
PTSD(死の恐怖に直面するなど強烈なストレス体験で生ずる生活機能障害)やうつ病の人の海馬は委縮している。強いストレスは免疫低下や細胞死を招くとともに、海馬の細胞新生を妨げる。また、アルツハイマーや認知症の人では、アミロイドやタウ蛋白の沈着で海馬の細胞死が進行し、最初の病変が海馬に現れ、記憶障害が起きる。
富山大学の井ノ口馨教授は、PTSD等の医療の観点から、細胞新生に着目した。井ノ口教授は「新生細胞が海馬の既存組織の中に割り込むように作られるため、既存の記憶が攪乱される、それを回避するため、海馬は記憶をできるだけ早く大脳皮質に書き移すのではないか」と考え、2009年にそれを実験で実証した。
記憶が海馬から大脳皮質に書き移される時期を2年程度と説明したが、実際には6ヶ月~2年程度の幅がある。どの記憶をどういう順序で大脳皮質に書き移すのかよくわかっていないが、海馬の細胞新生が活発なほど大脳皮質へ書き移す時期は早まる。海馬の記憶を早く大脳皮質上に安定的に固定させ、海馬の余力を増すことが、海馬に絡む病気の予防・治療に役立つのではないかと期待される。
海馬の細胞新生が活発なネズミほど記憶が良いとの実験結果がある。ネズミの海馬の細胞新生を促す要素として、①刺激に富んだ環境(広い居住区に様々な遊具を配する等)、②運動(回し車)、③DHA・EPA(青魚に含まれる脂質成分)摂取の3つが確認された。
 シニアになると新しいことを覚えにくくなる。その一因は海馬の細胞新生が不活発になり、海馬に滞留する記憶量が海馬全体の記憶容量を圧迫するので、海馬が適当に記憶を消去してしまうためと推測されている。
 3つの要素 ①刺激と変化に富んだ生活、②運動、③DHA・EPAの摂取 は、シニアにも効き目がありそうだ。

さて、情動に色付けされた記憶について、もう少し付け加える。
恋愛感情のメカニズムは解明されているが、どうして特定の人を好きになるのか? 最初は扁桃体がその人を好きになり、それが海馬の記憶となり、大脳皮質に書き移される。その長期記憶には「大好きマーク」がついているが、その後前頭葉が人物観察した結果、嫌いに変わるということも起こり得る。すると、その人に関する肯定的な記憶が、全て否定的な記憶に書き換えられてしまう。
なぜベートーベンが好きか、なぜマグロが好きか答えるのも簡単では無い。ベートーベンの場合、扁桃体が彼の音楽を好きになったかも知れないが、前頭葉がその生涯を知ってますます彼の音楽を素晴らしいと聴くようにもなる。大脳辺縁系(扁桃体と海馬)と大脳皮質(ここでは前頭葉)の間で相互作用が働くので、人間の感情や価値判断は複雑になる。情動に色付けされた記憶はそのことと不可分で、同様に複雑にならざるを得ない。

最後に利根川教授が2015年6月の英科学誌“Nature” に発表した論文を紹介する。
雄ネズミに雌ネズミと一緒の楽しいひと時を過ごさせ、その時の記憶を保存した細胞群を、光遺伝学の手法を用いて特定した。次に、雄ネズミの体を固定し慢性ストレスを与えて、うつ症状にした。うつ症状に陥った雄ネズミは好きな砂糖水も飲まない状態となった。そこで、雄ネズミの脳に埋め込まれた光ファイバーから光を送り込み、先に特定済の細胞群を刺激して楽しい記憶を人工的に喚起した。雄ネズミのうつ症状は、楽しかった記憶を思い起こすことで軽快した。
この傑作な実験研究をもって、「シニアのための脳の話」計3回を締め括ることにしたい。