シーラカンスを売って歩いた

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一時期、私はシーラカンスを売って歩いた。
私のキャリアは人事・勤労・総務・企画・資材等の管理部門ばかりであった。M重工退職後は建築・不動産関係子会社の監査役に就任した。その直後にアスベストが社会問題となり、私はアスベスト対策面での事業主責任に問題がないかを調査・監査した。分譲・賃貸物件にアスベストを含んだ吹付や建材は無いか、建物の改修・解体工事の際にアスベスト飛散のリスクは無いか等である。そうこうするうちにM重工の広島研究所に高性能のX線回折装置があってアスベスト分析に威力を発揮することが判った。当時首都圏ではアスベスト分析がパンク状態で結果が出るまでに3ヶ月を要したが、その装置を使えば2週間で結果が出た。そこで急遽アスベスト分析ビジネスの構築と営業に手を貸したが、これがヒットした。
これが切っ掛けとなり監査役から新事業開拓担当の取締役に転身した。管理部門のみのキャリアの私が50半ばを過ぎてから事業開拓と営業をすることになった。
未知の分野ばかりであったが、様々な新ビジネスのフィージビリティースタディー(蓄光材、メッキ槽放熱対策、レーザーによる塗膜除去、根菜選別装置、蒸気ジェット乾燥装置など)を次から次へとやった。

魚ロボットのレンタルもその一つであった。M重工広島研究所が魚ロボットを開発・製品化し広島の研究部門子会社が販売・レンタルをしていたが、そこと提携して魚ロボットのレンタル業に乗り出そうとした。
それまで水中での推進はプロペラかジェット水流であったが、魚ロボットは魚が泳ぐ原理を採用し無音で優雅に遊泳することが出来た。メカの外側に本物そっくりのゴムカバーを被せてあり、活きた魚のように見えた。シーラカンス・鯛・鯉・シャチ(名古屋万博で使用)の4種があった。その中ではシーラカンスが古代魚の魚体、青と白の斑点模様、緑色の眼で、泳ぐ姿が神秘的で美しかった。ギネスブックにも世界で最も生きた魚に近いロボット(the most lifelike robot fish)と認定されていた。

最初の営業は「新江ノ島水族館」。この水族館は経営が傾いた折オーナー経営者に代わって妻の堀由紀子女史が社長に就任し、新しい展示や趣向を凝らしたイベントで見事再建させた人気水族館であった。
この「新江ノ島水族館」で夏休みにシーラカンスを泳がせる、水族館は入場者数の増加でシーラカンスのレンタル料を十分捻出できる。また大船・江ノ島間を走るモノレールはM重工製でモノレール運行会社にM重工が出資していたので、モノレール内の吊るし広告でこの催しをPRする、水族館に行くモノレール利用客の増加が見込めるので吊るし広告は無償にして貰う、そういうシナリオで交渉して回る積りであったが、水族館とレンタル料が折り合わず企画倒れとなってしまった。
数か月後、福島の水族館「アクアマリン福島」がインドネシア沖に派遣していたシーラカンス探査チームがその海域に棲息するシーラカンスを発見、生きた生態を撮影するという世界的快挙を成し遂げた(幾つかの水族館はそうしたチャレンジをしている)。これは一般ニュースでも報道された。
「アクアマリン福島」が撮影映像を目玉にシーラカンス特別企画を催すというので、新事業開拓の同僚のO氏が同水族館を営業訪問したが、水族館にロボットは展示したくないとの水族館側の意向で採用されなかった。彼はその足で同じ福島の「スパリゾートハワイアンズ」にも集客用の見世物として売込みに行ったが、結局どれも成約に至らなかった。

シーラカンスビジネスの個々の商談は成功しなかったが、そうしたアイデアを幾つも携えて営業活動のチャネルを広げていったことで別の商談獲得(工場の省エネ診断、光触媒塗装、災害対応自販機、外国人技術・技能者派遣など)に結びついた。
高齢になって初めて挑んだ新事業の経験であったが、今思い出してみると面白いことがいろいろとあった。積極的に動いたことで、予想を超えたところに展開が拓けたように思う。
新しい領域・新たなチャレンジに年齢限界はない。
チャレンジが人生をより豊かにした。そういうことを学んだ貴重な経験だった。