ノーベル物理学賞・化学賞受賞者列伝


ノーベル物理学賞の受賞者は湯川秀樹、朝永振一郎、江崎玲於奈、小柴昌俊、南部洋一郎、小林誠・益川敏英、赤崎勇・中村修二・天野浩、梶田隆章の11氏、化学賞は福井謙一、白川英樹、野依良治、田中耕一、下村脩、鈴木章・根岸英一の7氏(いずれも受賞順)で計18名である。全員をカバーしきれないが、特徴的な業績や人物をできるだけ多く取り上げたい。

理論物理学は宇宙の生成・発展に始まり、物質と相互作用(力)の関係を解明する学問である。
宇宙は、138億年前、無から超高温・超高密度の小さな塊が生じ、それが爆発して誕生した(ビッグバン)。誕生直後は粒子(物質)と反粒子(反物質)が飛び交い、ほとんどが打ち消しあって消滅したが、わずかに粒子(クォークなどの素粒子)のみが残った。素粒子から陽子や中性子が形成され、陽子と中性子が組み合わされて原子核ができ、原子核と電子が結合して原子ができた。さらに原子が結合して分子ができた。
膨張を続ける宇宙には、超希薄なガスが広がっていたが、その濃いところが徐々に集まって巨大なガスの塊(恒星)となり、原子核融合が始まって膨大なエネルギーと熱と光を放出した。核融合反応を終えた恒星では、重力の超高圧で内部が潰れ、爆発を起こして広く宇宙に飛び散った。
そうした過程で様々な種類の原子(元素)が出来あがった。実は、地球上の全ての動植物も恒星の生成・爆発なしには存在しえなかったのである。
その宇宙には4つの力がある。1つは重力。2つ目は電気や磁石が持つ電磁気力で、原子核と電子を結びつけている力も、様々な原子(元素)が分子を構成する力も電磁気力である。
量子論・素粒子論の世界で別の2つの力が見つかった。素粒子が陽子や中性子を形成し、陽子と中性子が結合して原子核を形成する「強い力」と、素粒子間でのみ働く「弱い力」である。これらが異なる力なのか、あるいは4つの力を統合する理論ができるのかが、現在の物理学の大きな課題の一つとなっている。

湯川秀樹(1907年、明治40年生)は、28歳の時に原子核の陽子と中性子の結合には微小粒子が介在していると予言、それを中間子と名付けた。その後、イギリスで微小粒子の存在が確認され、1949年にノーベル賞を受賞した。なぜ「強い力」が働くかを解明し、その後の物理学の大きな流れとなる素粒子論を導いた。

朝永振一郎(1906年、明治39年生)は、湯川秀樹と三高・京大の同級であり、ライバルであった。当時の物理学の潮流は相対性理論と量子論であった。量子論は分子・原子やエネルギーなどの挙動解析に確率論・統計手法を導入した新しい学問であったが、高速・高エネルギーの物理現象は、量子論に相対性理論を組み入れないと解析できなかった。
朝永振一郎はアメリカのシュウィンガー、ファインマンと共同でそうした取組みを行って「超多時間理論」「くりこみ理論」を確立、量子電磁気学の分野を発展させ、1965年にノーベル賞を共同受賞した。

福井謙一(1918年、大正7年生)は京大工業化学科卒であるが、量子論を使って化学反応を電子の挙動で体系づける「フロンティア軌道理論」を発表した。斬新な発想であり、当初理解されなかったが、次第に正しさが確認され、1981年ノーベル化学賞を受賞した。

南部陽一郎(1925年、大正14年生)は東大物理学科を卒業後、朝永振一郎の指導下に入って素粒子論を研究。1952年に渡米、アメリカに永住して研究を続けた。素粒子論で数々の業績を挙げたが、1960年代始めに「対称性の自発的破れ」という概念を世界で最初に発表し、これにより2008年ノーベル賞を受賞した。
「対称性の自発的破れ」とは、本来どちらでも良かったものが、偶発的きっかけから全てが揃ってしまうことを言う。例えると、人間の心臓は左右どちらにあっても良かったが、左側になったのは「対称性の自発的破れ」が起こった結果というようなものである。素粒子論や電磁気学の世界では、これによって始めて理解できる現象が幾つもある。
ビッグバンの直後、物質に質量はなかった。イギリスのピーター・ヒッグスは、1964年に、南部の論文にヒントを得て、質量の起源はヒッグス粒子が「対称性の自発的破れ」を起こした結果だとする学説を発表した。宇宙の真空には未確認の粒子(ヒッグス粒子)が充満している。粒子の向きが不揃いだったビッグバン直後は、クォーク等の物質は何の相互作用も受けずに真空を突き貫けた。その後、ヒッグス粒子が「対称性の自発的破れ」を起こし、向きが揃ったために相互作用が働くようになった。それが質量だというのである。
ヒッグス粒子の存在はその後半世紀近く確認されなかったが、2013年欧州原子核研究機構が遂にヒッグス粒子の実在を確認、ヒッグスはようやく同年のノーベル賞を受賞した。

小林誠(1944年、昭和19年生)と益川敏英(1940年、昭和15年生)はともに名古屋大学理学部を卒業後、京大に移って研究をした。2人は1973年に、宇宙に物質のみが残り、反物質が消滅したのは、反物質の崩壊速度が物質の崩壊速度を1億分の1上回ったため、消滅し切れなかった差分が宇宙に残されたとする「小林・益川理論」を発表した。その後理論通りであることが実験で裏付けられ、2008年に共同受賞した。
以上が、理論による受賞者たちである。

次は観測による受賞と言えようか。

小柴昌俊(1926年、大正15年生)は高校時代から成績振るわず、何とか東大に入学したが、自らを「東大物理学科をビリで卒業した落ちこぼれ」と称し、現場主義の研究者に徹した。学生たちからは親分と呼ばれ、岐阜県神岡鉱山にカミオカンデを建設することに情熱を傾け、東大教授退官1ヶ月前に16万光年離れた大マゼラン星雲の超新星が放つニュートリノをカミオカンデで捉えた。新星爆発時にニュートリノが大量に放射されることは理論的に予想されていたが、実際に確認したのは世界初であり、この業績で2002年に受賞した。
2015年の物理学賞を受賞した梶田隆章(1959年、昭和34年生)は、1996年完成のスーパーカミオカンデ(カミオカンデの15倍の規模)でニュートリノをさらに詳しく観測し、質量が無いといわれていたニュートリノに質量があることを発見した。

偶然から、偉大な成果を生み出した例もある。

江崎玲於奈(1925年、大正14年)はソニー勤務時代にゲルマニウムトランジスタの不良品解析で偶然にトンネル効果を持つトランジスタを見つけた。このきっかけからエサキダイオードという新しい電子デバイスを開発・製作、これにより1973年物理学賞を受賞した。

田中耕一(1959年、昭和34年生)は島津製作所の一研究者であった。タンパク質など高分子の質量分析の新手法開発をしている時に、間違えて別の実験で使う筈だったグリセロールとコバルトを混ぜてしまい、もったいないのでそのまま試したところ、偶然にもその組合せが最善の分析手法につながった。
2002年ノーベル化学賞受賞を電話で伝え聞いた際は何かの間違いと思い、急遽島津製作所で行われた記者会見に作業服のまま出席した。その素朴で朴訥な人柄が日本全国を魅了した。同期入社の多くが課長に昇進する中、主任研究員のまま取り残されていたが、島津製作所はすぐにフェローという役員待遇のポジションを用意し、田中耕一記念質量分析研究所をつくって所長に任命した。その後の研究にも見るべき成果を挙げ、東大医学研究所客員教授や科学技術審議委員などで良い働きをしているのが、何よりである。

中村修二(1954年、昭和29年生)は徳島大学電子工学科を卒業、地元の日亜化学工業に就職した。研究開発に配属され、いろいろなテーマに取組んだが、成果が出なかった。そこで、当時不可能と言われていた青色LEDの開発に挑むことを思い立ち、創業者の小川信雄社長に直訴したところ、何と承認され、破格の3億円の予算をもらい、1年間アメリカに留学もして研究に打ち込んだ。中村は、会議にも電話にも出ずに研究開発に没頭し、遂に青色LEDの開発に成功した。
一躍有名になった中村のもとに国内外からの招へいが相次いだ。中村は、日亜化学の報酬・対価の余りに低いことを海外研究者等から揶揄された。日亜化学は中村を部長待遇とし、数多くの学会出席にも配慮するなど、それなりに厚遇したが、溝は埋まらなかった。中村が恩義を感じていた創業社長は、社長の座を婿養子に譲っており、中村を繋ぎ留めるものは何もなかった。
数年後の45歳時に米サンタバーバラ大学教授に転身した。すると、日亜化学が中村を企業秘密漏洩によりアメリカで提訴、これに対抗して中村は日亜化学を日本で提訴。アメリカの日亜化学の提訴は棄却され、日本の裁判所は、日亜化学に対し中村に200億円の支払いを命ずる判決を出して(但し訴額が8億円だったため8億円で和解)決着した。
その後2013年に、中村は、赤崎勇、天野浩と共同で物理学賞を受賞した。

下村脩(1928年、昭和3年)は海洋生物発光研究の先駆者であり、第一人者である。オワンクラゲから緑色蛍光たんぱく質(GFP)を発見・精製したが、GFPは特定の細胞や組織の標識に最も優れた特性があり、医学分野への適用技術を開発したアメリカ人学者2人とともに、1908年ノーベル化学賞を共同受賞した。
下村は16歳の時に、諫早市にいて長崎の原爆を被爆した。校舎が崩壊した長崎大学薬学部が諫早市に引っ越して来たため、やがてそこに入学。卒業後、薬学部の実験実習指導員となり、その後教授の紹介で名古屋大学へ出向いたが、目当ての教授は不在で、代わって応対した平田教授が自分の有機化学研究室に引き取った。有機化学は初めてであったが、平田教授のもとで勉強し、そこで「ウミホタルのルシフェリンの精製と結晶化」のテーマを与えられた。それは、米プリンストン大学研究室が20年間取組んで出来なかった課題であったが、下村は1年足らずで成し遂げてしまった。これに驚いたプリンストン大学ジョンソン教授が下村を招へいした。平田教授はアメリカでの待遇が良くなるようにとの配慮から、急遽下村に博士号を授与。下村は1960年に横浜から氷川丸で渡米した。
下村は、ジョンソン教授のもとでオワンクラゲをテーマにするなど、終生アメリカで研究を続けた。オワンクラゲからGFPを発見・精製し、それがノーベル賞受賞につながったが、ノーベル賞受賞記念講演の最後に、長崎大学の教授、名古屋大学の平田教授、プリンストン大学のジョンソン教授のスライドを映し、「自分のすべての研究は、3人の恩師に導かれて生れてきた」と述べた。
オワンクラゲは山形県鶴岡市立加茂水族館で見ることができる。人工繁殖で世代交代したオワンクラゲは発光しなくなっていたが、それを知った下村はわざわざ水族館に電話し「セレンテラジンを餌に混ぜれば発光する」とアドバイス、その後来日した際に加茂水族館を訪れ、一日館長にもなった。加茂水族館のオワンクラゲは、それを知ってか知らずか、今は緑色の光を放って泳いでいる。