ノーベル医学賞受賞者列伝


2015年のノーベル生理学・医学賞に輝いた大村智氏は、驚くべき人物である。いままでのノーベル賞受賞者の中にもいろいろと面白い人がいたが、大村氏ほど痛快で劇的な人生を生きた人はいない。
そこで、大村氏に触発されて、ノーベル賞受賞者の人物列伝を書いてみることにした。今回は医学賞受賞者を対象とし、まずは大村氏(1935年、昭和10年生)のおさらいから始めたい。

山梨県の農家の長男として生まれた氏は、農作業の手伝いで忙しく、勉強はほとんどせず、高校・山梨大学ではスキーに熱中した。県大会で5回優勝、国体にも2回出場した。
山梨大学では自然科学系の教育課程を修了、卒業後、東京墨田区の工業高校の夜間定時制の教諭となり、5年間物理と化学を教えた。そこで、夜間高校に来る生徒が油に汚れた手を洗う間もなく、一所懸命勉強に励む姿を見て感銘を受け、自らも勉強し直すことを決意、東京理科大の修士課程に入った。昼は勉強、夜間は教諭、その後大学に寝袋を持ち込んで実験に打ち込み、33歳で東大の薬学博士に、35歳で東京理科大の理学博士になった。この間、弟の学費(弟は東大を卒業、三菱マテリアルの技術担当取締役だった)も出していたというから、すごい。
これと前後して、30歳で北里研究所の技術捕として採用され、33歳で北里大学の助教授に就任した。抗生物質の化学構造の解明に業績を挙げ、国際会議を縁に米ウェズリアン大学の客員教授となり、製薬大手のメルク社から研究費を獲得した。アメリカで研究を続ける積りであったが、38歳時に北里大学の抗生物質研究室長を継ぐために帰国、そこでメルク社との共同研究を開始した。
土壌中の微生物が持つ薬効成分に注目し、日本中の土を採集して調査・分析した。450以上の有機系化合物を発見、そこから抽出・合成した25以上の化学成分が医薬・農薬・試薬として世界中で使われている。抗寄生虫薬のイベルメクチンは、伊豆の川奈ゴルフクラブ脇の土壌で見つけた放線菌から抽出・解析・合成したものである。因みに大村氏はハンディ5でゴルフはセミプロ級というから、これまたすごい。
イベルメクチンはメルク社が1981年家畜向けに発売、今までに1.8兆円を売上げ、動物薬として世界No.1である。最初メルク社は特許を3億円で買い取りたいと提示したが、大村氏はこれに応じず、売上にリンクした特許料をもらう契約を締結、結果250億円が大村氏の収入となった(他の薬の特許も含む)。
「お金を残しても何にもならない」という考え方の大村氏は、北里研究所に220億円を寄付、また美術愛好家の氏は、自分が買い集めた絵画を展示する大村韮崎美術館を設立し、韮崎市に寄贈した。
イべルメクチンは家畜のみならず、アフリカや南米で人のあいだに蔓延していた深刻な寄生虫病にも極めて優れた予防効果を示したので、メルク社と大村氏(特許料放棄)は数億人に無償で予防薬を提供し続ける福祉事業を始めた。これにより、この種寄生虫病を地球上から根絶する成果を収めつつある。
 

さて、大村氏以前には、利根川進氏と山中伸弥氏がノーベル医学賞を受賞している。

利根川進氏(1939年、昭和14年生)は京都大学理学部からアメリカに渡って研究を続け、免疫グロブリンの特異な遺伝子構造の解明により1987年ノーベル賞を受賞。その後、研究対象を脳・神経に移し、記憶細胞群の発見や記憶のメカニズムの解明など次々と瞠目すべき研究業績を挙げ、今では脳・神経分野の世界有数の研究者となっている。ノーベル賞再受賞の呼び声もある。氏の脳・神経分野での活躍ぶりは本サイトの「シニアのための脳の話③―記憶の迷宮」に記載しているので、参照されたい。

山中伸弥氏(1962年、昭和37年生)は2012年にiPS細胞の生成でノーベル賞を受賞。例えば皮膚の細胞から、眼・心臓・骨などあらゆる組織を作れる夢の再生医療の道を拓いた。ネズミのiPS細胞の生成が2006年、ヒトのiPS細胞の生成が2007年であり、前例のない異例のスピード受賞だった。
公演やテレビ等の出演も多い氏はその温厚誠実な人柄が広く知られているが、柔道、ラグビーに励んだスポーツマンであり、今もランニングを欠かさない。整形外科医になったが、不器用で手術が下手だったため、悩んだ末に研究職への転身を決意、アメリカに渡り、そこで万能細胞を研究テーマに選んだ。アメリカで研究を続ける積りだったが、子どもの入学を機に家族が帰国。そのため本人もあとを追って帰国した。
日本で、実験用ネズミの世話に明け暮れながら万能細胞の研究を続けたが、研究環境が劣悪で、またネズミの研究が医学に役立つのかといった周囲の無理解に悩み、鬱状態に落ち込み、朝も起きられないほどに衰弱した時期もあった。が、研究環境の整った奈良先端科学技術大学院大学の研究室に移れたこと、アメリカでヒトの胚から万能細胞が生成され、一躍再生医療の可能性に光が射したことで研究への集中を取り戻すことができた。
途中、何度か挫折を味わいながらノーベル賞受賞に至った氏の好きな言葉は「人間万事塞翁が馬」で、「一喜一憂せず信ずる道を進んで行きなさい」という氏の言葉には人間味と重みとが溢れている。
 

さて、ノーベル医学賞選外ではあるが、北里柴三郎、野口英世は受賞しても良かった。この2人についても言及しておきたい。

北里柴三郎(1853年生)は東大医学部を卒業、ドイツのベルリン大学に留学してコッホに師事、1889年に破傷風菌を発見、1890年にはドイツ人ベーリングと共同で血清療法を開発し、新しい治療法を確立した。欧米諸国から幾つも招へいの誘いを受けたが、日本の医学の発展に尽くすため、1892年に帰国した。
ただ、脚気の原因を細菌と考える東大の恩師に対し異説を唱えたため恩知らずとされ、日本で適切な活躍の場を与えられなかった。これを見た福沢諭吉は、北里を自らの援助で設立された私立伝染病研究所の所長に迎え入れた。
1894年にはペスト菌を発見、更に名声が高まり、1901年の第1回ノーベル賞の候補になったが、血清療法の共同開発者ベーリングのみが受賞し、北里は授賞されなかった。
その後1914年に突然私立伝染病研究所が国立となり、東大の下部機構に組み入れられたため、北里は所長を辞任、私費を投じて北里研究所を設立した。
そこで狂犬病、赤痢、発疹チフスの血清療法などの開発を進めたが、1917年福沢諭吉が没すると、福沢の恩義に報いるため、慶応大学に医学部を創設した。志賀潔など北里研究所の名立たる研究者を惜しげも無く慶応に送り込み、本人は終生無給で慶応医学部の発展に尽力した。最後には大日本医師会の初代会長に就任した。

野口英世(1876年、明治9年生)については、1歳の時に囲炉裏で火傷して左手の指が癒着してしまったが、15歳の時にアメリカ帰りの渡部医師の手術を受け、左手が使えるようになった。それに感激して自らも医師を目指し、医学上の世界的業績を幾つも挙げたという偉人伝で有名である。
しかし、実際の野口は驚くべき浪費家で放蕩児、また口がうまく借金の天才であったらしい。人格的に優れた人物とは言えないが、破天荒で猛烈な人生を生きた稀代の天才であることは確かだ。
学歴は高等小学校卒。当時は尋常小学校4年間の上に高等小学校4年間があった。一般庶民は尋常小学校のみで終わる者が多かったが、野口の優秀さを見込んだ教育者小林栄が学費を援助して高等小学校に進学させた。卒業後は、渡辺医院の書生として働きながら医学を勉強し、21歳で医師免許を取得した。北里柴三郎の伝染研究所に勤務、研究には従事しなかったが、語学力を買われ、外国語の翻訳、外国人との通訳をした。(後にスペイン語圏に行った際にはスペイン語も話したというから、語学の才もあったらしい。)
その後、横浜検疫所に勤務、ペスト患者を発見・診断した。その能力を買われ、清国で防疫の仕事に従事。帰国後、北里柴三郎の紹介状を持って、来日時に通訳をした米国人医学者を頼って渡米した。24歳でペンシルバニア大学医学部助手の職を得て、与えられたテーマの蛇毒の研究論文を書いて、一躍注目を浴びた。
その後、デンマークの血清研究所に留学派遣され、戻ると設立間もないロックフェラー医学研究所の研究員として移籍された。1911年、35歳時に梅毒の病原体スピロヘータの分離・抽出と培養に成功し、世界的名声を得た。同年、アメリカ女性と結婚。
さらに小児麻痺病原体や狂犬病の病原体の特定など次々と業績を挙げたが、その後の医学界の詳細研究調査結果、今ではその多くの業績が否認されるに至っている。
しかし、当時の野口の名声は高かった。40歳代に入ってからは、エクアドル、メキシコ、ペルーを駆け巡って黄熱病などの風土病の防疫と治療に邁進した。
黄熱病は野口ワクチンで治ると思われたが、アフリカで発生した黄熱病に野口ワクチンが効かないとの報告を受け、自らラゴスに出向き、黄熱病研究を続けようとした矢先、黄熱病に罹患、「(免疫が効いている筈の自分が)なぜ黄熱病になるのか私には分らない」と言いながら病没した。享年51歳、疾風怒濤の人生であった。